本多流について 文:小林暉昌氏(S40卒 東京大学弓術部師範)
剛健典雅の伝統を守る
本多流と東大弓術部
矢飛びを大切にする本多流
本多流は本多利實翁(1836 - 1917 年 = 天保7-大正6)が興した射法で、全国的に認知された近現代の流派としては最も新しいものです。通し矢で名高い日置流竹林派の射法に正面打起しを取り入れ、「品行徳行・体育・衛生」の意義を強調したのが特色です。全日本弓道連盟(全弓連)の指導する射法八節とどう違うのかよく議論になります。弓術部師範の髙木棐(先生(大正 10 年卒)が全弓連の副会長、射法制定委員になって、射法八節に本多流の正面打起し、大三が取り入れられました。このため全弓連の指導する射法は本多流であると解説する人もいます。しかし、引取りから会、離れの射の核心では、筋肉の働き、離れの理念も違います。初歩の段階では全弓連方式で習うのもいいでしょうが、本格的な本多流の射にするには一段の飛躍が必要です。
2003 年に生弓会 80 周年記念で出版された『本多流弓術書』には利實翁の写真がたくさん掲載されています。全弓連の八節と違うことがよく判ると思います。この本で東大弓術部宗家師範の本多利永(四世宗家が解説していますように、「中り・矢早・花形」「正射・善中・品位」を大事にする射です。一言で言えば、弓術部綱領(「射は剛健典雅を旨とし 精神の修養と 肉体の錬磨を以て目的とす」)にあるように、剛健典雅を目指す射です。流祖の裸形の写真を見れば、筋肉の動きとともに離れの技法もわかってきます。
現代射法では体配を偏重して「矢早」「剛健」の要素がかなり薄れ、メリハリのない射が横行しています。本多流射法を簡略に言えば、体全体を使って大きく引き取って、押手の下筋を効かせて伸び合い、手の内は中押しにして、親指の根元で押し切り、勝手はアーチ型に引き収め、親指を跳ねて弦を外す。これで早い矢を飛ばし、鋭い弦音、弓返り、そして的中をもって射を完結させる。稽古の段階で射技の内容は幅があり、例えば離れは、完成型は小離れ、稽古の過程では大離れ、一文字の離れもあり、完成型しか認めていないというわけではありません。
本多流の門を叩いた阿波研造(範士をはじめ多くの名射士たちは、華族会館で写した流祖の七道の写真を暇があれば眺めて研鑽したといわれています。私たちはそれ以上の映像や弟子たちの証言や資料も残されており、本多流を研究する環境に恵まれています。2007年には、高木家の当主・高木久子様から流祖・利實翁の使われた弓、高木先生の弓、各1張が東大弓術部に寄贈され、育徳堂の射場に掲額されています。
本多流の源流は竹林派
本多流の淵源を遡れば、石堂竹林坊如成((1605年ころ没)の興した日置流(竹林派です。更に遡れば伊賀日置流の日置弥左衛門範次(になります。日置流といっても吉田流、雪荷派(、印西派(、道雪派(などと一線を画し、紀州竹林派の祖といわれる瓦林與次右衛門成直(の著した『自他射学師弟問答(』では、その違いを解説し、竹林派の優位性を説いています。竹林派は京都・三十三間堂の通し矢の天下一争いでは主導的立場にありました。長屋六左衛門忠重((尾州・ 6323 本)、吉見台右衛門経武((紀州・ 6343 本)、星野勘左衛門茂則((尾州・ 8000 本)、和佐大八郎範遠((紀州・ 8133 本)と、大記録を次々と作っています。
本多流は系譜の上では、尾州の星野勘左衛門の流れを汲み、勘左衛門の弟子・渡辺甚左衛門寛(が江戸竹林派の基礎を作り、『射法輯要(
本多流の系譜の概略は次の通りです。
日置弥左衛門範次――安松左近之丞良茂(やすまつ・さこんのじょう・よししげ)――安松新次郎良清(やすまつ・しんじろう・よしきよ)――弓削弥六郎勝次(ゆげ・やろくろう・かつつぐ)――弓削甚左衛門繁次(ゆげ・じんざえもん・しげつぐ)――石堂竹林坊如成(竹林派祖)――石堂弥蔵貞次(いしどう・やぞう・さだつぐ)――長屋六左衛門忠重(尾州竹林派)――星野勘左衛門茂則――渡辺甚左衛門寛(江戸竹林派)――内藤與惣右衛門正傳――澤善之丞實房(さわ・ぜんのじょう・さねのぶ)――向坂権六郎勝長(こうさか・ごんろくろう・かつなが)――伊藤金之丞實乾(いとう・きんのじょう・じっかん)―津金新十郎胤保(つがね・しんじゅうろう・たねやす)――本多八十郎利重(ほんだ・はちじゅうろう・とししげ)――本多利實(本多流祖)――本多利時(ほんだ・としとき)――本多利生(ほんだ・としなり)――本多利永
射法改革と情報公開を進めた利實翁
本多利實翁は徳川幕府の旗本で、 30 歳の時に父利重から日置流竹林派の印可を受けました。幕末から明治にかけて弓道は廃れていましたが、利實翁は明治22 年に『弓道保存教授及演説主意(一名弓矢の手引)』を著し、弓道の再興に立ち上がりました。「品行徳行・体育・衛生」を重視したことから、嘉納治五郎(かのう・じごろう)が「体育・勝負・修心」をスローガンに講道館柔道を確立したのと並べられ評価を受けています。よく「弓聖」と称されるのは、①剛健典雅の射技を高齢になるまで自ら実践した②日置流竹林派の斜面打起し射法に正面打起しを取り入れて改革した③弦取りを活用した稽古法を確立した、など実技、射法観、稽古法で明治の巨人たちの中でも群を抜いて優れていたからです。「本多流」という流派名が定着したのは、利實翁没後ですが、大正6 年 4 月 29 日の日記には「本多竹林ト名称致ス」と記しており、竹林派を強く意識していたようです。
流派の世界では、伝承された弓書は門外不出が原則でしたが、利實翁は積極的に公開し、『本書』『中学集(ちゅうがくしゅう)』『目安(めやす)』など16 の伝書を、校訂、註解し『日置流竹林派弓術書』を 1908 年(明治 41 )に発刊し、情報公開のさきがけをなしています。この弓術書は東大の学生を相手に勉強会を開いて校訂をすすめ、坂本森一(さかもと・もりかず)(明治42 卒)、碧海康温(あおみ・こうおん)(明治 44 卒)先生らが中心になって編集され東大弓術部から発刊されています。
利實翁の集められた弓書は 1157 冊を数え、翁の号を取って「生弓齋文庫」と名づけられ、東京・巣鴨の本多利永宗家宅に保管されています。宗家宅では1996年(平成8)から勉強会が開かれ、保管されている弓書を読みながら射技論が交わされました。2003年発刊の『本多流弓術書』はその成果です。
こうした利實翁の射術、人柄に引かれ、当時の弓界の実力者の多くが門を叩き、利實翁も高齢をいとわず各地に行って早朝から夜遅くまで指導に当たったことが日記に記されています。大正、昭和初期の弓界をリードした大平善蔵(おおひら・ぜんぞう)、阿波研造、石原七蔵(いしはら・しちぞう)、徳永純一郎(とくなが・じゅんいちろう)、長谷部慶助(はせべ・けいすけ)、三輪善輔(みわ・ぜんすけ)各範士ら当時の錚々たる人たちが教えを受けています。
伝統守る東大の役割
利實翁は 1892 年(明治 25 )に一高の弓術教授、 1902 年(明治 35 )に東大弓術部師範になられ、弓術書の発刊などで東大との深い縁ができました。亡くなられる前年の1916 年(大正6)には、日置流竹林派の家元の権限を東大弓術部に預ける覚書を作成し、東大総長の下で保管されました。没後、この覚書が公表され、本多流の継承はわれわれでと意気込んでいた弓界の実力者たちに衝撃を与えました。この権限は孫の利時宗家が成長されたのをうけ、1923 年(大正 12 )に返還式が行われています。太平洋戦争中は、生弓齋文庫を埼玉県久喜市の髙木先生宅に疎開、利時二世宗家が 1945 年(昭和20 )亡くなられた後は、髙木先生が利生三世宗家の後見役として宗家権限を一時預かったこともあったようです。このように東大と本多流のつながりは深く強いことがわかると思います。
本多流は一世を風靡するような勢いがありました。理事長として長期間生弓会をリードしてきた関屋龍吉(せきや・りゅうきち)(明治 44 卒)、碧海先生らが文部省幹部として活躍していて、学校弓道への本多流普及を図り、急速に全国的な広がりをみせました。師範・指導者にも著名な人が多く、大内義一(おおうち・ぎいち)師範は学習院の弓道師範もされ、今上天皇に本多流の手ほどきをしています。
また、東大OBたちの社会的影響力も大きかったといえます。戦後の弓界を見ても、全弓連では髙木先生が副会長、樋口實(ひぐち・みのる)先生(大正3卒)が2代、5代会長、武田豊(たけだ・ゆたか)先生(昭和14 卒)が8代会長を引き受けられており、その他、副会長や理事で活動に加わったOBもたくさんいます。全日本学生弓道連盟でも高木先生が初代、藤岡由夫(ふじおか・よしお)先生(大正14 卒)が2代、樋口先生が3代、武田先生が4代、そして坂東邦彦先生(昭和34卒)が平成17年に6代会長に就任しました。
戦後も高木先生の洗心洞には全国各地から多くの弟子が集まりました。流祖に直接教えを受け東大弓術部師範となった寺嶋廣文(てらしま・ひろぶみ)先生(大正5卒)は、本多流の剛健な射を強調した射を求め、『本多流始祖射技解説』を編纂し、全弓連の射法との違いを明確にしました。今、弓界は全弓連の射法が普及し、なかなか流派独自の射法を主張する場所や機会は少なくなっています。段級や称号のヒエラルキーに巻き込まれた社会人では独自性の追求が難しくなってきています。それだけに、大学とそのOBたちによる流派の伝統を守る役割が大きく見直されてきています。これまでもOBたちから本多流の東大メッカ論が言われてきました。流祖が本多流の宗家権限を社会人ではなく、大学に全権委任したり、伝書類の公刊を東大に任せたりしたのは、大学こそが純粋に流派のことを考えてくれると期待したからでしょう。時には弓界全体に目を広げて、歴史的役割も考えてみたらいかがでしょうか。